二見のまち歩き(写真)

梅鉢家紋のあるれんが塀

梅鉢紋のあるれんが造りの壁
 二見に昔からある集落には路地がたくさんあります。また西二見にはれんが塀もあちこちに見られ和洋折衷の文化を感じさせます。

菅公ゆかりの梅鉢家紋

 西二見にある軒瓦の梅鉢紋。二見には『梅の紋』や『梅の絵柄』がよく見られますが、これは天神様からきていると伝えられています。なぜかというと菅原道真公は『梅』をとても好まれていたからです。また君貢神社にある『菅公仮寝の岡』の旧跡にも伝えられているとおり、菅原道真公は九州に流されるとき、京の邸宅で仕えていた加古郡天満出身の下男重助に会うために、二見に立ち寄られ仮寝をされたという話があります。このように菅公様は二見とは縁が深いことから、梅の紋が定着していったのでしょう。

二見の漁村の風景

二見大橋をくぐる漁を終えた漁船
 播磨灘から漁を終えた漁船が西二見漁港に帰ってきました。毎日のように人工島と西二見をつなぐ二見大橋の下を小さな漁船が行き来します。これは西二見漁村の日常的な光景です。

 播磨灘では、タイ、スズキ、ヒラメ、カレー、ベラ、タコ、エビ、海藻類などが主に捕れて、タイは明石海峡の潮の流れで身が引き締まってとくにおいしいです。
 また夏になると浜には干ダコがお見えし、地元の風物となっています。また海の近くに住む人たちはシケの後などに浜に打ち上げられたワカメや、漁港の海に生えているワカメを採って、家の庭に干して料理し食されています。
 自然は感性を豊かにし、天の恵みに感謝の念を芽生えさせる大切な環境です。子供たちの未来にとっても、二見の素敵な自然を決してなくしてはならないと思います。

洒落たれんが造りの建物

 二見商店街の近くに西洋的な近代的れんが造りの建物が、ひっそりと建っています。洒落たデザインは道行く人の目を注ぎます。この建物はガソリンスタンドや雑貨商を営んでいた人が、大正時代の初めころに倉庫として建てたものだといわれており、近代日本の雰囲気を漂わす二見小学校区の名所の一つとなっています。

谷地蔵尊の由来

 西二見の太鼓蔵の西隣りにひっそりと建つ「谷地蔵尊」。この地蔵尊の由来を調べると、昔お堂の西側が谷になっていて、昭和の初めごろから自動車が何回か谷に落ちたりして事故がよくあったといいます。そこで村人たちが亡くなった方々を弔うためにも、また谷へすべり落ちてけがをしたりしないよう、お地藏さんに守ってもらおうということから、昭和11年にお堂を建立しお地藏さんを安置したといいます。そのお地藏さんに村人たちは「谷地蔵尊」と名付け、今も村人たちから崇敬が厚く、地蔵盆には人垣ができて賑わいをみせています。

閑静な西二見の漁村

 西二見は閑静な漁村です。突堤に並ぶ漁船、飛び交う海鳥たちの鳴き声と姿。打ち寄せる渚の音。その漁村には古びた板壁づくりの家が建ち並んで、潮の香りがただよう、ひっそりとした村。冬には播磨灘から吹く風が強く、村落はその西風から守るようにぎっしりと寄り添って建っています。狭い路地が村中を縫うようにしてはしっていて、まるで迷路のようです。都会ではけっして味合うことのできない日本情緒豊かな風景がここには今も残っています。

帆下げ観音様

君貢神社

 ふれあいプラザ西側の段丘に御厨神社の祖になる君貢(きみつき)神社が建っています。伝説では神功皇后が三韓征伐のおり、二見に立ち寄られ物資を積んだ際、伊弉冉尊(いざなぎのみこと)、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)を祀られるこの神社に詣でられたと伝えられています。その後、朝廷に五穀を奉じつづけられたことから、武内宿禰(すくね)大臣より『君貢大明神』という神名をたまわったという伝承が伝わっており、古代には朝廷との縁が深い関係の土地柄だったようです。

中国的なれんが造りの壁

 西二見の路地には戦前の中国を思わせるようなれんが造りの壁があります。明治時代以降にできたのでしょうか。造られた年代はわかりませんが、さまざまな建築様式の建物があり、路地散歩でしか見れない風流な景観を楽しませてくれるところです。

日本文化を象徴する建物

 西二見の路地を歩けば日本が生んだ世界にはない建物文化が残っています。まるで江戸の世に戻ったように思わせる雰囲気が満ちあふれていて、見る者にとって目を見張る景観がとても感動的です。これらの建築遺産を本当に大切にしたいものです。

。夜泣きの塔

 夜泣きの塔は極楽寺阿弥陀堂の裏手にあります。写真でもわかるように石造五輪塔です。大正の終わりか昭和の初めごろの出来事で、神戸の富豪が五輪塔を気に入って数百円で買い受け、自分の庭園に移転設置したといいます。ところが奇妙なことに、その日からこの家に不祥事が起きはじめ、しかも深夜になると不思議にも五輪塔が『二見に帰ろう』と悲しげに訴えるようになりました。富豪はそれからすぐ五輪塔を、この元の極楽寺に戻したという話が伝説のように今でも語られています。

西二見の極楽寺

 極楽寺は平安時代にはすでに建っていたといいます。現在の境内は百坪ほどですが、当時は相当広い敷地であったと伝えられています。寺は厳島神社の神職重正の子の公真が寺主となり、地蔵菩薩を信仰していたと伝えられています。ちなみに阿弥陀堂の裏の墓地に『夜泣きの塔』があることでも有名な寺です。

東二見のエビスさん

 二見横河公園の赤壁南側に小さな社殿がある。恵美酒神社だ。土地の人は『エビスさん』と親しんで尊崇し、とくに漁師の守り神として代々信仰されてきた。祀られている神様は、住吉大神、神功皇后、戎さん、七福神の神様だ。

西二見の威徳院

道沿いに長くつづくどっしりとした威徳院の白壁。開基は行基菩薩様、二見ではただ一つの真言宗。西二見の守り御本尊です。この寺院には二見沖を通行する帆船を守った『帆下げ観音』が祀られていることも有名です。 明治5年(1872)威徳院は双鑑小学校を開き、また東二見の瑞応寺に開設された双見小学校とが合併。新しく『二見小学校』として設立されました。来年で創立150周年を迎えます。いま二見を上げて創立記念行事に向けて準備を進めているところです。このように威徳院は、二見小学校の元となった学業に盛んな寺院でもありました。

二見最古の寺『観音寺』

二見最古の寺と言い伝えられている『観音寺』。御本尊の観世音菩薩様は行基菩薩様の作と言われています。宗派は臨済宗。        (行基菩薩様は奈良の大佛を建立される以前、明石で川に橋を架け、港を築造し、ため池を造って民衆を助け、多くの村民から慕われたという土木に精通した大行者でした)

東二見の古い家並み

東二見には一時代タイムスリップしたような古い家並みが残っています。ここに電信棒がなければまさに江戸後期を彷彿させるような景観があり、日本家屋の立ち並ぶ家並みを楽しませてくれる場所です。 

波切不動明王様

東二見橋のたもとに移設された『波切不動明王』様が厳かに鎮座しています。波切りの由来は弘法大師が唐からの帰国のおり、船が嵐にあい難破しかっかたとき、師の恵果和尚から授かった霊木に対しみずから一刀三祈されて刻まれた『不動明王』に祈念すると、その不動明王は大火炎を発し、右手に持った『利剣』で押し寄せる波を切り裂き、船を安全に導き、無事に帰国できたと伝えられています。

きれいな二見横河公園

東二見にあるきれいな二見横河公園。4月になればサクラが満開になり美しさを一段と増します。奧には観音寺の大きなお堂が見えています。心の落ち着く素敵な場所ですね。

横河公園の赤れんがの壁

二見横河公園西側のれんが造りの壁、昔、横河邸があったところで、地元の人たちは『赤壁の家』と呼んでいます。なぜ赤壁にしたかというと、白壁にすると城壁に間違えられて海賊に襲われるということから、『赤れんが』にしたという伝承が残っていますね。

漁師町特有の路地

東二見西の町には漁師町特有の路地があり、漁夫の臭いを感じさせます。やはり冬には播磨灘から吹く強い西風から家屋を守るために、家々が接近して造られたのでしょう。

小山邸

路地を散策すると江戸の世に戻ったかと思うような建物や景観が目にうつります。この館は西二見の小山邸。平成11年に明石市の都市景観形成重要建築物に指定されました。

二見の路地

二見の路地
 古い二見の『まち』は路地が多いですね。なぜかというと播磨灘から吹く強い西風から家屋を守るために家が寄り添って建てられたからです。二見を散策すれば江戸の世を彷彿させる建物もたくさんあり見ごたえありますよ。

西二見の突堤から見た東二見橋 

 西二見の突堤から見た東二見橋です。その後ろには万葉ゆかりの淡路島が見えています。右側は人口島の緑につつまれた明石海浜公園。

人口島と二見をつなぐ東二見橋

 東二見港と人工島とをつなぐ東二見橋です。この橋は平成17年に開通しました。正月元旦の未明になると『初日の出』を見ようと、たくさんの人たちが集まってきます。一段と高くなった橋の中央部からは二見の『まち』全体が見渡せる素敵な場所となっています。