二見 懐かしの写真

昭和初期の二見港

昭和初期の二見港

 二見港に帆船がずらりと並んでいます。帆を下ろした船には、マストが天に向かって何十本と立っているのが印象的です。当時はまだ汽船の量産体制が整っていなかったため、少量輸送などは貨物も漁も帆船を活用していました。現代では見れなくなった情緒ある懐かしい光景です。

二見村の航空写真(昭和40年代)

西二見の航空写真

 この写真は昭和40年代はじめに撮られてもので、まだ人工島はありません。海岸線は突堤もなく自然な形になってたくさんの漁船が置かれているのが見えます。浜国道より北側は集落はまったくなく田んぼが広がって広々としています。
 西二見は東西に東之町、中之町、西之町から形成されて、南北の井筋(用水路)を基本に縦長に町割りされていることが、この写真からもわかります。また段丘上になった西二見は播磨灘が眺望でき、古くは海上関の役割を果たしていたという話があります。

東二見港の漁船(昭和51年)

 東二見港では、島谷造船、亀井造船、橘造船があって木造船を造っていました。漁師の乗った船は橘造船製で建造費は当時60万円したそうです。周辺の木造船はベラ釣り客を乗せる木造船です。
 写真手前の漁船の船首には「デンボミヨシ」という梅鉢という家紋が描かれています。二見には梅の印の入った瓦や絵柄をよく見受けられますが、これは天神さまに由来する言い伝えからきているそうです。

(「明石市の昭和」より引用。写真:明石文化博物館所蔵)

東二見港のタコ壺群

タコ壺漁は幹縄10㍍あたり1個のタコ壺を付けて、しかも1本の幹縄に100~200個のタコ壺を枝縄で結んで海に沈めていました。その枝縄の長さは約1㌔にもなったそうです。年配者には懐かしい写真だと思います。
(「明石市の昭和」より引用。写真:木村時彦氏)

昭和30年代のタコ壺くくり

 明石はタイやタコが有名で昔は二見浦でもタコ壺漁が盛んでした。タコはふだん海底の岩場に潜んでいますが、潮がゆるくなると砂地に出て小魚やカニ、それに貝を捕獲して食べています。潮の流れが早くなると岩場に戻ろうとしますが、砂地にタコ壺があればねぐらとする習性があり、それを生かしてタコ壺を沈めました。当時、タコ壺は八木や江井ヶ島から購入していたそうです。ワラ縄は壺どうしが当たっても割れないようにくくっていました。
(「明石市の昭和」より引用。写真:明石市立文化博物館所蔵)

昭和の二見港

二見港は安政2年(1855)に始まり、安政6年(1858)に完成しました。当時、港は出船入り船で賑わい、播州木綿、小麦、叺(かます)などの積み出し港として、大きな役割を果たしました。港には昭和のおわりごろまで大きな倉庫が並んでいて、商業港としての面影を残していました。

台風23号の爪痕

昭和40年9月に襲った台風23号、強風と豪雨によって東二見の瀬戸川沿岸の住宅が浸水する被害がでました。写真は二見港にあった醤油蔵も南側の壁が大きく壊れています。

安政山から見た二見港

昔、二見港の南西にあった安政山から二見港が見えます。左に鎮座する不動明王坐像があり、右側には私財を投げ打って難工事の末に完成させた先人たちの功績が刻まれた二見港築港記念碑が写っています。
(写真は昭和57年に佐藤光俊氏が撮ったものです)

二見小学校の親子ダンス

 昭和30年ごろ二見小学校の運動会で親子ダンスをしている光景です。二見小学校は明治5年(1872)、東二見にある瑞応寺に開設された双見小学校と、西二見にある威徳院で開かれた双鑑小学校とが合併して二見小学校が開設されました。
昭和26年、加古郡二見町と明石市の合併に伴い、現在の明石市立二見小学校となりました。来年の令和4年6月には創立150周年を迎えます。

昭和13年の二見町役場

 二見村は昔、加古郡に属していました。昭和2年に町制を敷き、昭和13年に新庁舎を建設しました。この建物のデザインは漁業が盛んな町を表すために、南に向かって船出する姿をイメージして造られたそうです。
 昭和25年二見町は明石市と合併し、現在明石市民センターとなっています。

(写真は「明石市の昭和」より)

屋根の連なる東二見の家並み

昭和40年頃に瑞応寺の屋根の上から撮影した写真。
家並みの向こうに二見港が見えています。右の高い煙突は銭湯の扇湯のものです。

山電の鉄路と浜国道

昭和42年頃の山電二見駅周辺の光景

  この写真は当時建設中だった農協の櫓から撮影したものです。東二見の駅のホームや線路、ゆるやかにカーブしている国道250号線。左手には二見小学校の校舎も見えます。
  西二見の線路北側は建物はなく田んぼが広がっています。現在とは異なる景観です。

懐かしい旧山電東二見駅

昭和40年頃の山電東二見駅

 駅西側には東二見車両基地があり、早朝や夜になると、この駅を終始点とする列車もありました。

街中を進む路線バス

昭和20年代後半 東二見を走るバス

 やや小型のバスが通行人に道をゆずってもらいながら道幅いっぱいに進んでいます。
   明石の市営バスは昭和26年2月6日に運営を開始しました。当時、バスの台数は路線バスが16台、観光バスが2台でした。

  昭和20年代後半はまだどこも道幅が狭く、写真のような光景が各地で見られたと思います。

東二見の昭和の家並み

昭和42年頃の東二見の三差路

  右下手前がガゾリンスタンド、その向いの看板建築が時計店です。その二つの店の間の道を右に進むと「浜国道」といわれていた国道250号線に出ます。
  ガソリンスタンドにば、今は余程でないと見ることのできない懐かしい三輪車が止まっています。

懐かしい東二見商店街の風景

昭和20年代の東二見商店街
(シバヤから東を望む)
 東二見を東西にはしる街道沿いにあった商店街。軒先には足袋や目薬などの幟が上がっています。しかも店先には商品があふれるように置いてあり、左手前の店内には商品の火鉢が山積みされ、軒下に縄で縛られた焼き物が置かれています。
 この商店街には衣料品店や荒物屋、また瀬戸物を扱う店や薬屋など、生活に密着した店舗が並んでいました。

昔の東二見商店街

 この写真は昭和13年に二見町役場の新庁舎が建設されたとき、庁舎の上から撮ったものです。中央に東二見商店街が見えています。
 当時は明石市ではなく加古郡二見町。商店街も今とは違い人通りも多く、買い物客で商店に活気と賑わいを見せていました。また黒い屋根瓦の日本家屋で埋めつくされた風景は現代とは異なる家並みが広がって、東二見が別世界のように見えます。

東二見商店街の時代行列

写真は昭和33年の明石まつり

  明石ゆかりの歴史上の人物を装って東二見商店街を行く時代行列です。子どもたちが集まって物めずらしそうに見ています。
 行列の先頭は船上城(ふなげじょう)を築城したキリシタン大名の高山右近、その後ろにイエズス会宣教師のガスパール・コエリョ、明石城下の町割りをした宮本武蔵がつづいています。
 昔は明石各地の商店街を巡るこういうパレードがあったのですね。

(写真は明石市の昭和を引用/写真提供:佐藤光俊氏)