鳥羽を歩く - 神田公園 ー  (3)

 神田公園の周辺は、かつて字神田(あざじんでん)とよばれていました。鳥羽村の起源は、近世の明石藩になって林崎掘割が完成したころ、古くみても中世の終わりと考えられています。その辺のところを、これから鳥羽を歩きながら確認していきます。新田開発にあたっては、八幡さんですから大分県にある宇佐神宮、あるいは、近くの林神社から資金の援助があったのでしょうか。それとも、明石藩の指導のもとに新田が開発されたのでしょうか。後者の可能性が高く、鳥羽八幡神社を運営するために藩から税を免除された水田があったと考えているのですが、神社に文書が残されていないのでよくわかりません。

 大久保町大窪にあります八幡神社には、寛永8年(1631)に明石城主の小笠原忠真(ただざね)が1町2反5畝の黒印領を神社に寄付し、以後、歴代の城主は15石の領地を寄附したという文書が残されています。これこそ神田ですが、残念ながら大窪の方には、字名の神田は見うけられません。〈明石市野々上3丁目〉   (T・Y)