秀吉を苦戦させた魚住城址

 戦国の世、秀吉を苦戦させた城が江井ヶ島の丘に建っている。それが魚住城址である。空の紺碧色を映し出した播磨灘。淡路島や家島群島も一望のもとに見渡せる丘、土地の人々はそれを城山と呼ぶ。

 卜部家の系譜によると、魚住城はもと魚住の中尾村にあり数代つづいたという。室町時代は赤松氏の配下にあり、魚住次郎が城主をつとめた。嘉吉の乱(一四四一)においては、幕府軍が赤松氏を攻めたとき、赤松則尚の命に従って魚住次郎は大きな戦功をあげた。しかも明徳の乱や応仁の乱にも出陣し、赤松氏に従って活躍したという。


 時代が変わって安土桃山時代になると、赤松氏から三木の別所長治の支配下に入った。そのときの城主は魚住頼治であった。そのころ織田信長の連戦連勝の国取り作戦は全国制覇へと進んでいた。
 時は天正六年(一五七八)、織田信長は天下統一をめざし、羽柴秀吉に中国の毛利征伐を命じた。秀吉は毛利方の前方部隊であった三木城主別所長治をまず倒すために兵糧攻めに向かう。いよいよ大久保や魚住周辺は戦雲の気運が高まっていった。 


 さて話は変わるが、羽柴秀吉は戦争が上手である。たとえば州の又の一夜城のように即効性城づくりの名人でもある。また、城を囲んで兵糧攻めをするのが得意技であった。


 織田信長が朝倉義景を攻めたとき、運悪く敗走したが、秀吉はしんがりをつとめ織田信長を無事退却させた。まさに秀吉は攻めるも逃げるも天才的手腕を発揮した武人である。それほど戦争が得意であった。それは地下人を多く使った。地下人は武士ではつかめない情報をもっていたからだ。いざ城攻めがはじまると、さすがの秀吉も苦戦した。三木城が落ちないのである。なぜなら毛利方が海上輸送で兵糧や戦略物資を江井ヶ島の浜に陸揚げし、それを魚住城の卜部安知が支援し、村人を使って三木城へ運んだからである。


 そのとき卜部安知は伝馬船で赤根川を逆上り山間の抜け穴を通って、しかも厳重な包囲網をかいくぐって運んだといわれる。実際三木城では生きのいいタイを何度も掲げて秀吉軍に誇示していた。それからというもの輸送路の激しい攻防戦がはじまった。それを切断しようとする秀吉軍、またなんとしても確保しようとする卜部軍。その両者の白兵戦が幾度となくくり返された。また毛利軍は江井ヶ島から高砂にかけて二万の軍勢を布陣し秀吉軍ににらみをきかせたが、秀吉はその補給路を完全壊滅させるため、大窪の光触寺を本陣にし、池田輝政を守りにつかせた。


 天正七年、いよいよ卜部軍の壊滅戦がはじまる。大久保から魚住一帯は戦乱の巷と化し、別所方の遍照寺や薬師院、また延命寺や如法寺なども焼失した。しかも森千軒家(もりせんげんや)という密集した民家が焼き討ちに合った。勝ちほこる武人の鬨の声、また悲痛な叫びと共に逃げまどう老婦女子の声がこだました。まさに戦国地獄図絵そのものが展開されたのである。


 その戦いによって卜部軍の補給路は完全に壊滅してしまい、最後には魚住城も追いつめられ落城してしまった。苦戦で怒り心頭に達した秀吉は、卜部安知以下関係者や村人を馬石の岡で処刑し、魚住城の幕が閉じたのである。その後、補給路を絶たれた三木城は天正八年(一五八〇)ついに落城することになった。


 その戦雲の渦のなか、卜部安知の子供源助は母と共に、伊川谷の今井家に身をかくした。その後、豊臣家が滅亡して徳川家が天下を取ったのち、江井ヶ島に帰ってくる。その子は卜部次郎兵衛と名乗り、江井ヶ嶋酒造の元をつくったといわれている。