御厨神社の由来
東二見と西二見の間に「卯の花の森」別称常磐木の森とも言われている所があり、そこに二見の守り神である御厨神社が建っている。先人たちは神社周辺一帯を「御社の岡」と呼んでいた。
創立は、火災で社伝が消失してしまったため詳らかではない。しかし神社の伝承によると神功皇后が三韓征伐の際、二見浦に船を休められ、兵糧を集められたことから御厨(みくりや)という神名が起こったと伝えられている。
当時、御厨神社の元は東二見の東の中にある君貢神社だった。しかし平安時代後期の長歴年間に今の御厨神社に移されたという。
御祭神
神功皇后
応神天皇
素盞鳴命
菅原道真公
応神天皇は貞観年間(859年~877年)に宇佐神宮より勧請された。菅原道真公の天満宮は、寛和年間(985年~986年)に、太宰府天満宮より勧請されたと伝えられている。
社伝によると菅原道真公が筑紫の国へ左遷させられたとき船を二見の浜に寄せられ、御厨神社に参拝されたという。そのとき境内の鳥居の松に腰をかけられ休まれたという伝説が地元では有名な伝承として残っている。それが縁起となって境内には菅公ゆかりの「腰掛け松」がある。
その縁で菅公とゆかりの深い牛の神様をお祀する霊牛神社も境内社として建てられている。ちなみに昔は境内にあった陶製の牛に草を食べさせると、「汗疹」ができないという言い伝えがあり、村人たちから厚く崇められた風習があった。
また二見は漁村としても播州では有名な所で、先導や海運関係者からも尊崇が厚く、拝殿には帆前船の絵馬や模型が御奉納されている。
御厨神社の御神事
御厨神社では年間をとおして、多くの御神事が行われている。1月の厄除け大祭に始まり、3月には春祭、7月は祇園祭から夏祭へとつづく。
この夏祭には以前、古くから伝わる「湯立て」という御神事が行われていた。
湯立ての御神事の日、注連縄(しめなわ)をはったその下で、大釜に湯を沸かし、その中につけた笹の葉で大人たちが子供たちへ湯をふりかける。それは1年間、元気で駆けずり回る子供たちの無病息災を願って神様から見守ってもらう習わしがあった。
御厨神社の秋祭
御厨神社のクライマックスである秋祭りには、二見あげての神幸式と屋台練りが行われ、二見全域から氏子や村人たちがたくさん集まり、とても活気に満ちた賑わいをみせる大祭である。
さて、神輿渡御式が本宮の正午から行われ、神主が「神遷しの儀」をすませると、聖天子が現れたとき、奇しくも出現するという鳳凰の姿をかたどった神聖な御神鳥を神輿の上にさす。
神輿を担ぐときの囃子詞は「マカセ、マカセ」といい、練るときは「チョウサンジャー、チョウサンジャー」という習わしになっている。
太鼓屋台は小学校6年になった男児が4名一組で、交代して乗る風習だったが、少子化により現在は女の子も乗るようになった。
小学生は屋台を担ぐ練り子と、屋台に乗って太鼓をたたく乗り子が、かけ合いで「文明」という歌を唄いながら、村中を回る。屋台の後には自然と集まった大勢の村人たちの行列がつづいていく。
午後1時になると、境内を埋めつくす人垣のなかで、神輿が練られだす。最初に練るのは白装束姿の壮年者がものすごい気合を入れて練る。それからつづいて青年団、若衆に渡し力づよく出発する。
午後1時半、猿田彦を先導に、日月の幟、御弊、供え物、祭器をささげた各地区の氏子総代、神輿、神主の順で、神社から鳥居をくぐり、浜へ向かう一本道をまっすぐ歩いてお旅所へ向かう。
お旅所では巫女(みこ)による御神楽御奉納、神主の御祈祷、各氏子総代の玉串奉奠(たまぐしほうてん)の儀がとり行われ、八百万の神様にたいし、海上安全、五穀豊穣、無病息災の祈りと感謝をささげられる。
御厨神社の境内社
御厨神社の境内にはたくさんの祠がいくつもあり、さまざまな神様がお祀りされている。
高良神社(武内宿禰命)
金毘羅神社(大物主命)
朝日神社(天照大御神様)
由加神社(手置帆負命)
霊牛神社(度会春彦)
秋葉神社(武甕槌命)
夕日神社(豊受大神様)
稲荷神社(宇迦能魂様)
追記
二見の御厨神社周辺は、古代、伊勢神宮の荘園であったという伝承がある。この地で採れた海の幸、山の幸を伊勢神宮に御奉納していたという。また御厨とは伊勢神宮に御饌(みけ)を調達するところという意味があり、食物と関係があるからだ。古代では気候的にも風土的にもよく農耕も盛んで豊かな土地柄であったようだ。しかし二見は地形が段丘状になっており、本庄や魚住とはちがって水利の面が悪く水資源に困窮した。そのため近世から近代にかけて綿花栽培が盛んとなって綿糸商業が発展し、二見港から難波や高砂方面に出荷されていたという。