二見港築造の話

漁を終えて東二見港に帰る漁船

 昔、二見の海は明石海峡の潮の流れの影響で砂が堆積し遠浅だった。しかも播磨灘から西風が強くなると海流と風がぶつかって波浪が高くなり、通行する船は難所として恐れられていたという。しかも二見の港は不便な「片浜」(かたはま)だったため、荷役中に強い西風が吹くと船が母港に戻れなくなることを避け、途中で高砂や明石へ去ってゆかねばならなかった。

むかし安政山があった方向を見渡す

 二見や稲美地方は台地になった地形になっていることから、土地は水利にも乏しく乾燥風土で、稲作にはむかない土地柄だった。そのため綿作の栽培が盛んとなり農家の重要な仕事となっていた。

幕末、綿作は河内地方と播州地方が二大生産地で、二見は綿作関連の手工業や商売が発展する地盤が整いつつあった。 

東二見港に入る漁船

 生産された綿は周辺の村々から二見に集荷された。そこで二見では糸をつむぐ産業が盛んとなって、「しのまき屋」を中心とする綿作手工業が漁業と共に栄えていた。
 また新田開発により、肥料供給源となる採草地が減少し、購入肥料が主力を占めるようになったが、江戸末期には二見にイワシの油をしぼったかすを乾燥して販売する「干鰯(ほしか)屋」という店舗が多くあって賑わったという。

 肥料販売を経営していた干鰯屋忠兵衛は、二見港の粗悪な状態や綿の生産量が拡大していく状況を見て、綿や関連物資の流通をよくするには二見の将来を考えねばならない。そのために頑丈な大きな港が必要だと悟った。そこで忠兵衛はもし港の完成ができなかった場合は、どんな罰をも受けてもいいとう覚悟で心魂をこめた港築造の決意をし、一族や庄屋を説き伏せ、その燃えるような思いで東奔西走し、当時、二見の領主だった武蔵国忍藩(埼玉県)の了解をも取り付けた。しかも二見周辺の村民にも訴えつづけ、村々からその熱意に打たれた石工200名や手弁当持ちの村衆が集ってきたという。

 港の築造開始は安政2年(1855)から始まった。作業は干潮を利用して、井桁(いげた)に石をのせ海に沈める基礎工事から始まった。作業は順調に運んだかのように思ったが3年目を過ぎたころ強い西風が吹き荒れ、完成しつつあった東の堤防が3回も崩れてしまった。しかし忠兵衛は呆然とするひまもなく、再び立ち上がり築造をつづけた。その熱意に打たれた村人たちは、なんとしても完成させなくてはという願いから、御厨神社、君貢神社に参拝し完成祈願を行った。そのさまざまな艱難辛苦の結果、着工から4年目となる安政5年(1858) に民衆の力で立派な港が完成したという。

君貢神社(昔は境内が広大だったという)

 ほうけん塔には無事完成を祈り、一字石経を東の堤防に埋めたという言い伝えも残っていた。実際、昭和32年(1957)の調査で「ほうけん塔」の基礎の中から一字石経や数十基の墓石がぎっしりと詰められ、また世話人の戒名なども丁重に納められていたことがわかり、伝承の正しさが証明された。

ほうけん塔

 その後、二見港は「綿」「小麦」「かます」などの積み出し、「肥料」の積み下ろしなど帆船が出入りし、大阪との商いの渡航船も入港した。しかも明石、高砂などの中間港としても栄え、明石海峡や播磨灘が荒れたときなどは、避難港としての役目も果たしという活気に満ちた港だった。
 二見港には堤防が二つあった。西の堤防に記念碑を建てて功績を讃え「安政山」と名づけた。東の堤防にば「ほうけん塔」を建設して、今も二見港を見守っている。

今も二見港を見守る「ほうけん塔」

干鰯屋忠兵衛さんの成し遂げた二見港築造の大きな功績に感謝し、二見に縁があり暮らす者として子々孫々にまで伝えていかなくてはならないと思う。

■安政山には明治30年「二見築港記念碑」が建てられた。その記念碑の右側には不動明王坐像が鎮座されていたが、平成17年、人口島をつなぐ東二見橋の建設で移動をよぎなくされ、現在地の波切不動明王尊境内地に移転されている。


安政山にあった築港記念碑(右側は末広大明神様)
西二見から見た東二見橋

【参考資料】
ふるさと二見の歴史
大西昌一
ふるさとの道を訪ねて 
明石市教育委員会
明石の史跡      
橘川真一
明石こそわがふるさと 
神戸新聞明石総局