
遍照寺の由来
大久保から西の魚住にかけて、緩やかな丘陵になっている。その魚住町錦が丘の台地からは、魚住平野が一望のもとに見わたせ、その田園の四季の移り変わりが絵に書いたように美しく見える。
その光景を見下ろすように聖徳太子ゆかりの遍照寺が建っている。開基は聖徳太子。開山は奈良時代、七堂伽藍を完成させた行基菩薩、宗派は浄土宗で、京都知恩院の末寺である。御本尊は阿弥陀如来様。
土地の人はこのお寺を「魚住の太子さん」と呼んで親しんできた。昔、西国街道を通る旅人たちは、荘厳な七堂伽藍の美しさに目をうばわれたことだろう。

聖徳太子とのご縁
このお寺の由緒は、推古天皇5年(597)に、百済(韓国)から来朝した阿左太子が国へ帰る途中、この地まで聖徳太子がお見送りにこられた。しかし船の出帆に適する風が吹かず、その風を待つために、しばらく留まったところだという。
また、聖徳太子はこの地の景色の良さにとても感銘されたと伝えられている。そこから山号の「足留山」という由来になった。その由緒から長坂寺が建ったといわれている。その寺院は28院をも持つ大きなお寺だったという。今は惜しくも消失しその荘厳な雄姿を見ることはできなくなってしまったが、遍照寺はその大寺院の塔頭(たっちゅう)の一つだった。
「明石の史跡」によると、聖徳太子が建てられたという法隆寺の所領が播磨国に3か所あったという。
明石郡の長坂寺、賀古郡(加古川市)の鶴林寺、揖保郡太子町の斑鳩寺だった。それほど長坂寺は由緒があった。その消失したお寺は、大道池のあたりから奈良時代の瓦が出土したため、長坂寺はこのあたりではないかといわれている。しかしもっと別なところに長坂寺の御本堂があったのではないかという説もある。
後醍醐天皇の御宸筆
遍照寺には、建武の中興で後醍醐天皇が隠岐の島に流され、その地を脱出されて、京都に上られる途中、このお寺に立ち寄られたという伝承が伝わっている。そのとき後醍醐天皇が御国を思われてお書きになられた「鎮護国家上宮王殿」御宸筆が御奉納された。それを江戸の世になって額に写し変えたという寺宝がある。

聖徳太子立像
しかも聖徳太子みずからが彫られて造られたという聖徳太子立像も、太子堂にご丁重に安置されてお寺の貴重な宝となっている。

境内にある供養塔について
さて、遍照寺は今まで何回も焼失している。南北朝の動乱で一度焼失し、その後、戦国の世、三木合戦のとき別所方だとして秀吉軍に焼かれてしまった。再建されたのは、元禄4年(1691)、遍照寺の中興の祖といわれる覚了上人だった。
また、境内の墓地には、三木合戦で敗れた別所長治の供養塔だと伝えられている五輪塔が建っている。
「明石の史跡」によると、一説には魚住にいた大勢の村人たちが秀吉軍に殺りくされたため、その人たちを弔う供養塔ではないかともいわれている。
とにかく戦国時代の織田信長による国取り作戦で、それぞれの地域で多くの人々の犠牲があった。大久保や魚住においても、大変な犠牲者を生んだことがわかる。それを思うと平和であることの尊さというものは、われわれにとって最大の幸ではないだろうか。
