明石の生んだ地酒茨城酒造(地酒の歴史)

酒蔵の誕生
 魚住町西岡にある江戸さながらの酒蔵が、瀬戸川の河口付近に建っている。その播磨灘を背にして建つ酒造は190年もつづく茨木酒造だ。
 190年前といえば江戸後期、幕末である。そのころ、この地に酒づくりが始まった。建物はその当時からある貴重な文化遺産だ。ここに来れば、今はなかなかにして見ることのできない江戸建築にお目にかかれる。まさに江戸文化の化石。

酒藏が海に面しているのはなぜ?
 茨木酒造はの酒藏は海に面している。これには二つの理由があった。一つは貝殻層から出る湧き水。一見、海水が混じっているように思うが、それがすごい良水で、しかも水の性質が硬水であるため、酒の仕込みに非常に適していることだ。二つめは海上輸送である。現代は陸上輸送が中心、しかし江戸末期はまだまだ海上輸送で清酒を運んでいた。

酒仕込みに適した播州米
 清酒「來楽」の決めてになったコメは、三木や神戸の北区から採れる播州米の「山田錦」や「日本晴」。それが「來楽」のほどよい甘口タイプの地酒として、多くの愛飲家から親しまれることになった。
 酒造会社といえば江戸風の建築が多いが、この茨木酒造の事務所はめずらしく洋館建てになっている。
 大正時代の中ごろ、田口政五郎が米国人の知人の建築家に依頼し、洋館を建てたという。その当時社長だった田口政五郎は、参議院や明石市長も勤めた政治家でもあった。しかし昭和の初期、田口政五郎が政治活動に専念することになり、この酒蔵の西隣にあった茨木酒造が購入し現在にいたったという。社長は茨木清兵衛さんだ。

酒造りにこだわりと誇り
 明石は昭和38年ごろは、25社の酒造会社があったが、大手企業に押されて、現在7社だけとなった。しかし、その生存競争のなか、地酒の「來楽」は、たくましく生きつづけ発展している。その発展を支えてきたものは、茨木清兵衛さんの地酒に対するこだわりと誇りだ。しかも同酒造がつくった「元旦仕込みの会」。この会は酒蔵見学会や、日本酒の愛飲家で1997年4月に結成された。